先日、私が作文と国語の授業を受け持っている、小学生数名に、オリジナルの「オノマトペ創作」という課題に挑戦してもらいました。

 オノマトペ……、なんのこっちゃ? と思われる方も、擬音語、擬態語と言い換えれば、ピン!! と来るでしょう。人や動物、自然現象ほか、あらゆる物体の、動作、感情、鳴き声、物音を表す言葉のことで、オノマトペはフランス語です。

 雨の降り始めはポツポツですし、本降りになればザーザー、頭の上では雷がピカリと光って、ゴロゴロ恐ろしい音で鳴り響きます。犬はワンワン、猫はニャーニャー、鶏はコケコッコ~。頑固親父はガミガミ怒りますが、陽気なお母ちゃんはゲラゲラ笑い、おしとやかな娘はクスクス笑います。ベッドにゴロンと寝っ転がれば、たちまちバタンキューと寝入ってしまい、そのうちグーグーと高いびきが聴こえて来ます。

 上の文章のカタカナ部分が、すべてオノマトペになります。日本語は、世界中のさまざまな母国語のうち、最もオノマトペが豊富な言語だという研究データがあります。

 なぜ〝そう〟なったか? これには日本語の成り立ちの歴史が大きく関わってきます。かなり乱暴に解説させていただけば、わが国には奈良時代になるまで、まともな【書き言葉】は存在しませんでした。したがって、他者とナニガシかのコミュニケーションを図るには、かならず【話し言葉】……相手と会話をしなければなりません。

 その際、たとえば犬の鳴き声が話題に出たとすると、ただ「小さい犬が、やたら甲高い声で吠えていたよ」と伝えるよりは、「小さい犬が、やたらキャンキャン吠えていたよ」の方が、相手の意識の中に、その犬が吠える情景が、よりリアルに浮かび上がって来ますよね。

 じつは鳴き声自体は、キャンキャンでもキンキンでも構わないのです。肝心なのは、その鳴き声を聴いた相手が、その【音】の響きから、実際に接してはいない小さな犬の姿かたちが、オツムの中にふんわりと、でも確実にリアルにイメージされることでありまして、

 さまざまな事象に際して、話し言葉だけで相手に、自分が伝えたい情報を、「よりリアルに伝えたい!!」いう強い想い(想念)が、日本人に膨大な数のオノマトペを生み出させる原動力になっていると、私は考えます。この、相手に伝えたい【話し言葉の強い想い】のことを、日本では言霊と呼ぶます。

 私たちのはるか昔のご先祖様の時代から、「日本語には魂が宿る(=言霊)!!」と言われています。そんな、ある種スピリチャルな概念、感覚を持ち合わせた言語は、世界広しといえども日本語ぐらいなものでしょう。特に、しょせん(と言っては失敬ですが)26文字のアルファベットを、まるで記号の順列組み合わせのごとく並べて、言語表現を成り立たせてきた英語圏の人々にとって、想像も出来ない芸当です。

 英語圏の人々にとって「おはよう」は、丁寧に話そうが、面倒げにつぶやこうが「Good morning.」であり、イコール「朝の挨拶」という意味以上に、何か深い意味を含ませたりはしないはずです。

 日本語はまったく異なります。朝、どんなに忙しい支度をしながら、朝食をせわしげに食べる時でも、たとえ早口であろうと「いただきます」と言いますよね。食べ終われば「ごちそうさま」です。この表現には、食事を「始めるための挨拶」、「終えるための挨拶」という意味はもちろんですが、それ以上に、その料理を作ってくれた誰かへの感謝、茶碗に盛られた御飯を生産してくれた、お百姓さんへの感謝などが、無意識でしょうが、含まれています。

 いま【御飯】と、あえて私は書きました。読みは、もちろん【ごはん】。日本では全国各地、老若男女がほぼ全員、わざわざ【飯】の字の前に、敬語表現である【御】を付けて口にします。理由は、食事時の挨拶同様、私たちの主食である米を生産してくれるお百姓さんへの感謝の意を表しているからでして、その風習が長年、日本人のDNAに組み込まれ、いつの時代からか誰もが【ごはん】と称するようになったのでしょう。これこそが、言霊の言霊たる所以(ゆえん)です。英語の【Rice】と日本語の【御飯】は、言語表現の成り立ちからして、決してイコールではないのです。

 さて話をオノマトペに戻します。他の母国語と比べて抜きん出て優れた、まさに日本語の特質とも言うべきオノマトペですが、

 言語表現の創作を日々の生業とする作家は、自作において、どう活用しているか? という話になりますと、途端にテンションが下がります。誰が言い始めたかは知りませんが、ネット情報などでも、「いわゆる〝名作〟と呼ばれる文学作品を書く作家は、オノマトペ表現を使いません!!」と言い切っている書き込みが目立ちます。

 理由は、「オノマトペを多用すると、文章が幼稚になるから」だそうです。この手の【決めつけ】型の論調は、素人さん相手の「小説を書いてみよう」的な創作系のHPやブログにおいて、顕著でありまして、中にはオノマトペを一切、使わずに文章を書くことが、さも「上質な作品を完成させる近道だ」とでも言いたげな、じつに了見の狭い、オツムでっかちで堅苦しい表現原理主義者の指導も、多々見受けられます。

 私は鼻で笑ってしまいます。「へぇー、ホントにそうかね?」と。

 私はヘソ曲がりな人間ですから、よぉし!! だったら、その手の輩が【上質な作品】と認めざるを得ないレベルの、わが国を代表する作家の【名作】の中から、かなり意地悪な観点で、オノマトペ表現を抜き出してやろうじゃないですか。

 まずは宮沢賢治。この名前は、もはや説明不要ですよね。彼はオノマトペの天才と言いましょうか、オノマトペを否定してしまうと「宮沢文学が成立しない!!」と評されるぐらいに、宮沢賢治にとって擬音語、擬態語は、創作表現の原点であり〝必需品〟です。

 ある世代から下の皆さんは、『銀河鉄道』と聴けば、まず大ヒットしたアニメ『銀河鉄道999」を思い浮かべるでしょうが、もちろん〝本家〟は、宮沢賢治が1934年(昭和9年)に刊行した、日本文学初の「本格ファンタジー」=『銀河鉄道の夜』です。この作品に激しくインスパイア(啓発、感化の意味)された、漫画家の松本零士が、1977年(昭和52年)以降、あのドラマチックな漫画&アニメ作品を描いたのです。

 ちなみに『銀河鉄道の夜』、世間では子供向けの「童話」扱いされますが、断じて違います。大人の読者をも想定して書かれた、れっきとした「ファンタジー文学」です。

 『銀河鉄道の夜』には、随所にオノマトペが登場します。

・たくさんの輪転機がばたり、ばたりと回り、

・ふくろふの赤い眼が、くるっくるっと動いたり

・ジヨバンニはわくわくわくわく足がふるえました。

・さつきから、ごとごとごとごと、ジヨバンニの乘つている小さな列車が走り続けていたのでした。

 お次は、明治の大文豪、天下の夏目漱石先生にご登場願いましょう。デビュー作の『吾輩は猫である』以降、あらゆる作品の中で、漱石はオノマトペを多用しています。漱石の代表作であり、俗に【後期三部作】といわれる『彼岸過迄』『行人』『こころ』……、その『こころ』に描かれたオノマトペは、こんな感じです。
  
・先生はまた、ぱたりと手足の運動を已(や)めて、仰向けになったまま浪(なみ)の上に寝た。 (中略) 青空の色がぎらぎらと、眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。

・共に波に浮いて、ゆらゆらしていた。ゆらゆらしながら、奥さんはどこまでも手を出して、覚束(おぼつか)ない私の判断に縋(すが)り付こうとした。

・旗も黒いひらひらも、風のない空気のなかにだらりと下がった。

 太宰治もまた、オノマトペ表現を好んだ作家でありまして、タイトル自体がオノマトペである『トカトントン』は別格にしても、長年、教科書に掲載されている、青春文学の傑作の1つ、『走れメロス』には、あらゆる【名場面】でオノマトペが憎いほど巧みに使われています。

・メロスは単純な男であった。買い物を、背負ったままで、のそのそ王城に入って行った。

・メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、(中略)必死の闘争を開始した。(中略)ぜいぜい荒い息をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。

・折りから午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、よろよろニ、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を打った。

・「ありがとう、友よ」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。

 つまりは……ですねぇ。私の見解を申し上げるならば、「オノマトペが悪い!!」のではなく、あくまで使い方、オノマトペ選びのセンスの問題なのです。

 言葉を覚えたての幼児でもあるまいし、犬はワンワン、猫はニャンニャンとしか「鳴かない」と考えているような輩は、確かに上質な文学作品に遠く及ばないでしょう。

 でも自分にしか使えない、いや「俺が使うしかない!!」との自信を内に秘めて使う、オリジナリティあふれるオノマトペであれば、創作表現をよりリアルに輝かせるためにも、堂々と惜しげもなく使うべきなのです。

 実際、エンタメ系の売れっ子作家の皆さんは、そんなことは釈迦に説法、とっくの昔に実践されていますし、若手の純文学作家の中にも、新しい言語表現を模索する意味で、オノマトペの研究に励んでいる例は少なくありません。

 創作表現というのは、「こう書くべき」と、しゃっちょこばって取り組む趣旨のものではなく、おのずと湧き出る「こう書きたい!!」との情動を、画家ならカンバス、作家は原稿用紙、今時ならパソコンのキーボードに叩き込む芸道なのです。

 表現に関して「こう書くべき」「こう書いてはいけない」と、あまりに原理主義的に自意識を縛ることは、私に言わせりゃ愚の骨頂、ナンセンス。ことクリエイティビティの発露という側面から、百害あって一理もない!! と断言いたします。

 ましてや、いま現在、〝まだ〟何者でもない、若々しく新鮮で柔らかく、それでいて重たいオツムを、目ン玉の上に載せている、思春期真っ只中の子供たちのクリエティビリティは、それはもう、無限大に拡がる真綿のごとく、まっさらでふわふわで、ほんの少しの水分でも瞬時に吸い上げるパワーを秘めています。

 その〝まっさら〟を、大人の凝り固まった既成概念で汚すことは、暴力以外のナニモノでもない!!

 私は日々、当塾の生徒に作文や小論文を指導する際、【そのこと】を常に肝に銘じ、決して忘れずに、こちらも〝まっさら〟な気持ちで、彼ら彼女らの作品と向き合っております。

・むきゅきゅ、ずきゅきゅ → 底が少し濡れたスリッパが、フローリングでこすれる音

・ババン、ドン、ヒュルルルルー → 花火が空に打ち上がる音

・どどど、ずてててーん → 自転車からコケて、地面に倒れた音

・うー、るるるるる → 飼っている猫が、たまに怒る時
 

 これらは、実際に私の授業中に、子供たちが書いてくれた、彼らのオリジナルのオノマトペです。どれもイマジネーションにあふれ、大文豪も顔負け、みごとな日本語表現でしょう。

 もうすぐ始まる夏休みに、ある意味、ゲーム感覚で、親と子で、どれだけオリジナルなオノマトペを創作できるか? 競争してみてはいかがでしょう。